永源寺に伝わる島田家の話の中に、江戸北町奉行島田忠政の五男権三郎にまつわる恋物語があります。それは、四代将軍家綱に使え御小姓を勤めていた権三郎と、仙台の外様大名伊達綱宗が、江戸吉原を代表する三浦屋の名妓二代目高尾を奪い合った話であります。
伊達綱宗は権力と財力によって高尾を奪おうとしましたが、高尾は権三郎に想いを寄せており、権三郎と共に綱宗の手を逃れて坂戸の地に来たと云われています。そして、権三郎は、高尾が病身であったため、尼寺の常福寺にて看病にあたりましたが、萬治3年(1660)2月27日、ついに高尾は生涯を閉じたのでした。
権三郎は一族の菩提寺である永源寺に高尾を手厚く葬り、自らは道哲と名乗って仏僧となり、浅草の西方寺(現在は駒込に移されている)の前身である道哲庵を建てて、高尾の菩提を弔って一生を過ごしたと云われています。
また、高尾はその没年から萬治高尾と呼ばれています。その高尾の墓が永源寺の境内の一角にあり、その墓碑に「万治三庚子極月廿七日、月桂円心大姉」と記されています。
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