伽藍造立

開創以来の伽藍は寛文2年(1660)「丙丁の災」に荒廃したものの翌3年(1661)島田出雲守によって直ちに再興が図られました。文化10年(1813)当時全国的に学識手腕共に卓越せる名僧、黙室良要禅師が当山二十世の住職となり島田丹波守、松平大和守等の後援を得て七堂伽藍を整えるに至り釈尊降誕際も一躍盛事をみるに至りました。しかし、この七堂伽藍も、わずか三十数年を経た弘化3年(1846)惜しくも祝融の災に全山悉く灰燼に帰しました。嘉永6年(1853)に、ようやく庫院を再建、明治18年(1885)二十六世住職孝山実道大和尚が独力で本堂を再建しました。昭和37年1月その庫院を惜しくも焼失、翌年庫院を再建しました。さらに平成5年現在の庫院(禄源代)を新築しました。

三十一世禅明住職は就任当初より寺院整備の実現を一生の念願として着着実行に移し本堂大修理・開山歴住塔の建設・鐘楼堂改修及び大梵鐘の再鋳等を経て、遂に多年の大願を果たすべく昭和49年夏に大鐘殿法堂新築と降誕釈尊堂の移築改築の大工事を起し、正に永源寺開創以来の大事業として大規模な工事が展開されました。そして工期2年有半を経て昭和51年9月1日大鐘殿法堂を完成、同年12月釈迦堂が完成しました。

特に大本堂たる大鐘殿法堂は間口22メートル余、奥行20メートル余、最高棟高21メートル余に及ぶ二階建てで正に県下に誇る名伽藍として寺院建築の代表的なものとなりました。

大鐘殿法堂
大鐘殿法堂